【本能寺の変】明智光秀はなぜ、謀反を犯したのか!?

コラム

法華寺を尋ねた時は、知らなかったので、意識していなかった事もあり、見ていなかったのですが、ここ法華寺の案内板に、本能寺の変 にまつわるエピソードが明記されている画像を載せている、ブログを拝見しました、それによると、

鷲峰山法華寺(しゅうぶせん・ほっけじ)

もと天台宗であったが、鎌倉時代寛元年間領主蓮仏入道盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて禅宗に改めた。
天正十年織田信長が甲州討伐の時、この寺を本営として滞陣して論功行賞を行ない、多くの武将たちが集まった。信長が明智光秀を愚弄して恨まれ、本能寺の変の原因の一つをつくったのは、ここの寺である。

と記載されています。

しかし、「史料には、そのような記載は無い」という事を言っている方もいて「本能寺の変がおきるまで、信長と光秀の関係は良好であり、怨恨での説は無い」と述べています。

(余談:信長が光秀を法華寺以外で、罵倒や愚弄をしたとする史料も あります)

織田信長と明智光秀の関係

明智光秀が織田信長の家臣となったきっかけは、後に室町幕府・第15代将軍となる
足利義昭(あしかが よしあき)を、信長に紹介(間を取り持った)のが始まりとあります。

光秀は、美濃の国を治めていた斎藤道三(さいとう どうさん)の家臣でしたが、(父)道三と(息子)義龍(よしたつ)の親子が争った「長良川の戦い」で、(父)道三が敗北、その際、義龍の軍勢に明智城を攻め落とされ、逃げ延びた光秀は、朝倉義景(あさくら よしかげ)の治める越前の国に身を寄せます。

この時、第13代征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)足利義輝(あしかが よしてる)が家督争いにより、暗殺されてしまい、不在となった征夷大将軍職に付くべく、朝倉家を訪れ、手を組む事を持ち掛けます。

しかし、断られた義昭を その当時、勢力を拡大していて、勢いのある織田信長と手を組む事を 光秀が提案し、間を取り持ちます。

天下統一の大義名分が必要だった、織田信長にとって好都合だった為、利害関係がガッチしたことで、足利義昭は、後に、征夷大将軍(権力の象徴)として、当時の首都である(京都)に行くる事が出来ました。

明智光秀は、義昭と信長のパイプ役になった事で、織田家の家臣となり、数々の戦いで活躍していきます。時には、ピンチになった信長を、窮地から救いだしたり、逆に光秀が石山本願寺での戦いでピンチなったさいには、信長が自ら、救援に出向き、光秀の命を救ったという出来事もありました。

これらのことから、信長は光秀を信頼し、光秀は信長に恩義を感じていたとされ、忠義を尽くしていた言われています。

また光秀は、京都から近い国の一つである、丹波の国や信長の拠点である、近江の国の統治を任せられていたことから、信長が光秀を重臣として信頼していたことが伺えるとあります。

しかし、こうした関係がなぜ、終焉を迎えることになったのでしょうか!?。

本能寺の変の真相(説)

1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」には、様々な見解があり諸説有ります。
・野望説:天下統一まじかの信長を打てば、天下人になれると思った。
・黒幕説:豊臣秀吉・イエズス会・長宗我部元親・などが裏で手をひいていた。
・怨恨説:数々の信長による仕打ちにより、恨みが有った。
・不安説:明智家の存続に対する危機感。
などの説が諸説あります。

例えば、光秀はなぜ? 本能寺で信長を討つ事に成ったのでしょうか!
これも説の一つですが、信長が家康と、その重臣、約30人を本能寺に呼び出し、すきを見て 光秀の軍勢に家康を討たせる計画があったとされ、それを逆手に取った、光秀が信長を討つ絶好のシチュエーションが出来たとされます。

光秀にとって、年齢的にも当時としては、高齢の67歳であり、後を継がせた息子も、まだ10歳と言う若さ、信長政権下において、必要とされなくなってしまう不安感もあったとされます。

また、その後の説に、
・イエズス会のルイスを通して豊後国の大名で大友 義鎮/宗麟(おおとも よししげ /そうりん)と手を組む手はずで、光秀にとって勝機を確信していた。
・秀吉の軍勢が驚異的な速さで京都に着いて光秀を討つ事が出来たと。
・家康は大阪の堺市附近から愛知県の岡崎市迄、当時では考えられないスピードで戻って、兵を引き連れ、出陣したこと、なども、謎とされていたりしています。
しかしこれらの説は、全て史料を元にして、一部分を盛った話とされ、憶測であり、真実とは断言出来ません!。

事実の史料に基づいて、それらしく描かれていますが、それに対し,突っ込みを入れる方もいます。

文章として残した人物の地位や立場上,確実に知りえた情報なのか? そもそも勝ち組が、都合の良い様に話たり、記述していたのではないか? など、憶測や見解が入りまじり、結局のところ真実にたどり着く事が出来ません。

このすべての説に関して、切れ者である明智光秀にとって、戦いの後に起こりうる お家断絶の文字は、想像が付いたはずで、どの説も 無いと言えるのではないでしょうか。

しかし現実に[本能寺の変]は起きています!。

このことから[行くも地獄、戻るも地獄、お家断絶もやむなし]と言う精神だったのではないのかと、個人的に思います。

まとめ

結局、個人の憶測と見解だと思います。⇒と言う、個人の見解でした!。・・・(;^_^A

個人的には、いくら兵法書に則った方法で信長が、戦術や家臣に対して行った行動とは言え、非道な方法に、光秀は、日頃から不満が有り、信長が天下人になってしまう事を、暗示て行った謀反であったと信じたいですね!

例え、光秀自身が死没しても、信長だけは亡き者にしなければ、太平の世は来ないと、考えての行動で有ったと信じたい、ライバルで有った、家康や秀吉に後を託したのだと思いたいですね!。

最後に、目標が大きければ、大きい程、一人では限界が有ります、大きな目標を持つ事は良いのですが、仲間は大切にして尊重しあいたいものです!。裏切られない為にも・・・!

以上です。

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