吉良義周公の生涯

コラム

吉良上野介と吉良義周の関係

吉良 左兵衛 義周きら  さへい よしちか 通称:吉良義周
義周は、吉良上野介の養子であり、孫でもあります!。

吉良 上野介きら こうずけのすけ 義央(よしひさ/よしなか)通称:吉良上野介
吉良上野介は、忠臣蔵の敵役として有名になった人物で、上野介の祖先が三河の国に移ったさい、足利の姓から吉良の姓に変更した為、足利の姓ではないが、足利将軍家の子孫であり、位の高い家柄で高家旗本の出です。

その、上野介には、息子の上杉綱憲つなのりが、いたのですが、妻であり、上杉家の流れをくむ姫である、三姫さんき(または富子/後に、梅嶺院ばいれいいん)の実家である(上杉家)の養子に入ったため、綱憲の息子(義周)を引き取り養子にしたのです。

吉良義周は、1686年(貞享二年)に生まれ、1689年(元禄二年)に吉良家の養子になりました。

義周公の悲劇

吉良家の養子となり、赤穂事件の発端となった、松之廊下刃傷事件まつのろうかにんじょうじけん後に家督を継いだ事により、若くして亡くなったとも言える義周公!。
キッカケとなったのは、赤穂事件の後におきた吉良邸討入の出来事でした。

赤穂浪士が討ち入った際、義周は薙刀で応戦して、怖くなり逃げ出したさいに、後ろから切られ、気絶をしと言われていますが、その時の義周本人を取り調べた史料には、赤穂浪士が討入りを計画をしていた事を、この時まで知らず、無警戒だった事と、義周自信、「私も長刀で防戦しましたが、2箇所に負傷し、目に血が入って気を失いました。」とあり、また「誰と戦ったかは分かりません」とも証言しています。

この時、義周は17歳でした。戦国時代も終わり、平穏な時代に生まれ育った義周にとって、初めて体験した恐怖であったでしょう!
しかし、その様な事は、考慮されるはずもなく「武将としての自覚が足りない」とされ、諏訪藩の高島城で幽閉されることになります。

義周公の不運の発端となった (赤穂事件)

赤穂事件とは、江戸城・城内の松之大廊下で、播磨赤穂藩・藩主の浅野 内匠頭 長矩あさの たくみのかみ ながのり が吉良上野介を切りつけた事件で、赤穂浪士・忠臣蔵の発端となった出来事です。

この出来事により、浅野内匠頭は即日切腹させられ、播磨赤穂藩は、お取り潰しにされます。一方で吉良上野介には、おとがめなし!。

これに納得のできない家臣たちは、亡き主君の浅野内匠頭に代わり、大石内蔵助おおいし くらのすけ良雄( よしお/よしたか )含む、47人が吉良邸に討ち入り、主君の仇を討ちます。

その際、吉良義周と渡り合った人物が、不破 数右衛門 正種ふわ かずえもん まさたね(通称:数右衛門)と、されていますが、別の説では、武林 隆重たけばやし たかしげ(通称:唯七/ただしち)ともいわれています。

どちらにせよ、義周の不運はこの出来事から始まったのです。

高島城での暮らし

ここ、高島城での生活は、たび重なる病気により、わずか3年で、終わりを遂げます、1686年に生まれ、1706年に生涯を閉じた吉周は、この時、若干20歳(満21歳)の歳の時でした。

1703年(元禄16年)事件後の幽閉にあたり、管理していた領地(知行地)は没収され、(諏訪藩)へ幽閉の身となった義周は、諏訪藩士130名に護送されて江戸を出達したのですが、この時、義周の家臣は、左右田孫兵衛そうだ まごべえと、山吉盛侍やまよし もりひとの2名のみで、また荷物も長持棹(木箱)3つと、つづら (衣装箱) 1箱だけだったとされています。

高島城の南丸に幽閉された吉周ですが、高家のご子息ということで、諏訪藩士たちは吉良 左兵衛 義周であることから「左兵衛様」と敬称したとされます。

この時の、義周の待遇は、当時の通達文から知ることが出来ると言います。 それによると、

義周の付き人(左右田孫兵衛と山吉新八)とは話してはいけない。
義周への手紙や口上の取り次ぎをしてはならない。
義周が城より外へ出るときは駕籠を用意すること。
義周の衣類は御定めの通り木綿を着ること。
義周の気分が少しでも悪そうなら、その旨言うこと。
義周の書いたものは外へ出さないこと。
義周がいる間は、よその者を一切城内へ入れてはいけない。
義周と御付きに来た手紙は、殿様が内見してから渡すこと。

などが決められていて、さらに、諏訪藩士に対する心構えや生活指導なども書かれている
これらの文面からすると義周の、行動や言動は制限されていた事がわかります。

また、この地域は蚊が多かったようで、衣服や蚊帳(蚊を除ける網)を与えられたのですが、義周は生まれた時から虚弱体質で、高島城に来てからも、幾度となく病気にかかっていたそうです、そんな中、1704年(宝永元年)に実父・綱憲と母であり祖母でもある・梅嶺院が相次いで亡くなり、身内の不幸が重なった吉周ですが、義周自信も、1705年(宝永2年)から寝たきりとなり、1706年(宝永3年)に亡くなりました。

義周の体は塩漬けにされ、防腐処理が施され、幕府の検死を受けた後、諏訪の法華寺に葬られる事になるのですが、家臣であった、孫兵衛と盛侍の両名は、義周の石塔を立てて欲しいと、法華寺に代金を納めているが、その金額では自然石の石塔を建てる事が出来ず、現在の墓碑となっています。

以上[義綱の生涯]でした。

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