長野県・諏訪大社に行く前に立ち寄って、上田城址公園を散歩してみました!。
年号が令和に変わりゴールデンウィークも明けた5月7日に訪ねたのと、明け方4時過ぎという事もあり、人も2~3人程しかいなかったので、ゆっくり散歩したかったのですが、次の予定が有ったので40分程で切り上げて、公園をあとにしました!。
ここ上田城址公園は、大坂の陣の真田丸で有名になった真田家ゆかりのお城で、園内には受験生に人気の真田神社もあります!。
難攻不落の城:上田城
上田城址公園(東虎口櫓門・ひがし こぐち やぐらもん): 長野県上田市二の丸6263
上田城の歴史
上田城(うえだじょう)は長野県上田市二の丸にあるお城で、1583年(天正11年)に平地に築城されたお城(平城)に分類されています。
現在残ってのいるお城は、信濃小諸藩(しなのこもろはん)・藩主:仙石忠政(せんごく ただまさ)によって江戸時代初期の寛永3年(1626年)に再建築城される事になったのですが、2年後の寛永5年(1628年)4月20日に仙石氏が亡くなったことで、仙石家の転封(領土変え)および、藤井松平家に藩主が交代される事になり、7基の櫓(やぐら)と2基の櫓門(やぐらもん)が建てられたまま、工事は中断されました。
明治維新後、西櫓1基を残し、そのほかの櫓と櫓門は取り払われていましたが、城外に移築されていた2基の櫓はその後、買い戻され、昭和18年(1943)から24年にかけて現在の南櫓・北櫓として再移築されたとの事です。
また、平成6年(1994)には東虎口櫓門が復元され、現在の形となっていて天守閣(城郭)は有りません。
上田城址公園
上田城址公園・東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん):長野県上田市二の丸6263
城址公園内は木々も多く、お堀の池も有り、自然豊かな公園で、お散歩コースとしても最適です。
真田石
上田城 東虎口櫓門の石垣にひときわ大きな「真田石」と呼ばれる、積石があり「力と権力」の象徴だったのではないかと、考えられているそうです。
上田城の東虎口櫓門の内部は、有料となりますが、拝観できるようになっていて、真田家や仙石家・松平家などの史料も展示されています。
上田神社
上田城・東虎口櫓門を抜けると、真正面に眞田神社があります。この神社は元々は松平神社と言う名称だったとのことです。
この神社には、上田城を築城した真田昌幸や真田信繁(幸村)、上田城の再建を手掛けた、仙石家・最後の上田藩主家であった、松平家が祀られています。
明治時代になって、上田城は民間に払い下げられ、桑畑や麦畑になっていましたが、旧上田藩士たちの熱意と土地の所有者の寄付により、上田城址に松平神社が建立され、昭和28年に城主と藩主を合わせて祀り、昭和38年に初代城主の名に由来し、眞田神社と改名されました。
真田氏の知略と勝負運にあやかり(上田合戦で落城しなかった)ことから、受験に(落ちない)と言う語呂合わせで、知恵と受験の神社としたお参り祈願をする方も多いようです。
神社の鳥居の左横には幸村の赤い大きな兜も設置されています。
さらにそこから進むと、古井戸(真田井戸)があり「城外などへの抜け穴」であった、との伝説があります。
また、三の丸の藩主居館跡には、松平氏時代の屋敷門と堀が残されています。
本丸にある戊辰役上田藩従軍記念碑
明治維新に際して新政府軍に参加して戦った上田藩士たちの従軍を記念して立てられたものだそうで、台座の部分には、参戦した人々と戦死者名が刻まれています。
その他にも
・西洋の兵法を学んで日本の近代化に貢献した教育者を讃える石碑
・川に落ちて溺れた生徒を助けようとして、共に亡くなった若き教師の慰霊碑
など、いくつかの石碑が設置されています。
最初で最後の城主:真田昌幸
上田城の初代城主は、真田昌幸で幸村の父に当たる人物です。1601年に徳川軍によって破却された為、事実上 最初で最後の城主と言えます!。
徳川家康が支配する時代の上田藩 初代藩主となった真田信之は、幸村の兄に当たる人物で、この時期には、上田城は無く、沼田城を拠点にしていました。
初代城主の真田昌幸は、(武田信玄と武田勝頼)の2代に渡り,武田家に仕えた人物で、上田合戦では,徳川の攻撃を撃破しているうえに、徳川家康を、息子である真田幸村と同様に窮地に追込み、恐れさせたとの、逸話を持つ人物でもあります。
真田幸村(信繁)という名前
上田駅前(長野県上田市天神1丁目7)の真田幸村像
真田幸村といえば、「日本一の兵(つわもの)」とも称された、戦国時代の有名な武将の1人ですが、この幸村と言う名は、幸村の死没後に創作された名であり、歴史の史料上には、(真田信繁)としかなく、本人が幸村と名のっていた事実は存在していないとのことです。
真田家の家紋
真田幸村といえば、六文銭を思い浮かべる方も多いと思います。
なぜ「六文銭」を家紋に採用したのかは 諸説ありますが、さも有力視されているのが、仏教において「三途の川の渡り賃」という事から、いつでも、あの世に行く覚悟から来たと考えられています。
真田家には、他にも [結び雁金紋 (むすびかりがね)や州浜紋 (すはま)]といった家紋が有り、戦闘に行く際に六文銭の家紋を用いたのです。
この家紋は、真田幸隆(幸綱)(さなだ ゆきたか / ゆきつな)が旗印として採用したのが始まりだと言われています。
また、日本家紋研究会の見解によると、この家紋の原型は「信濃国の大族・滋野氏から出た海野氏の代表家紋の一つであろう」とする説などもあります。
その理由に、
・羽尾、大戸など、海野一族が「六れんてん」を用いていること、
・江戸旗本海野家が六連銭を本紋としていること、
・現在の海野姓で地域を問わず広く六連銭が用いられていること
などから推測して「六連銭は真田氏 独占の家紋ではないであろう」としています。
ただ、中世海野氏が六連銭を用いた史料は確認されていないとしています。
また、この家紋は幸村が幼い時に、武田一族が滅び、北条軍に領地をねらわれたさい、敵方である北条家の重臣・松田憲秀と似た家紋の「永楽通宝を旗に描いて掲げよう」と提案し、
攻め込んできていた、北条軍の混乱を誘発させ、隙をみて逃走し難を逃れたことに由来しているともいわれていますが、事実は確認できていないとの事です。
上田城築城から関ヶ原の戦いまでの流れ!
築城の理由については、1573年、武田信玄のなき後、衰退化した武田軍は、9年後の1582年天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)で、織田信長、徳川家康、北条氏直の三大勢力に領地を狙われたさい、最後まで戦った、武田信玄の五男・仁科盛信も、織田軍の手により、守っていた高遠城(たかとおじょう)を落城させられています。
武田の家督を継いだ武田勝頼は武田家ゆかりの地である天目山(てんもくざん)を目指し逃亡しますが、織田軍の追っ手から逃れられず、妻子と共に自害し、武田家が滅亡した為、上杉・北条と渡り歩き、徳川に付いた真田昌幸が、上杉謙信の養子で、謙信の後継者争いを勝ち取った景勝からの攻撃を対峙するため、徳川の承諾を取付けて築城したとされています。
しかしその後、天正壬午の乱の後処理後に、北条と徳川が和睦、それに伴ない徳川は、昌幸に沼田領を北条に引き渡すことを求めるが、昌幸は徳川から与えられた領地ではないことを理由に拒否したことで対立、さらに徳川と敵対関係にあった上杉景勝と手を結んだ。
そのことを知った家康は、1585年(天正13年)に家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵を真田討伐の為に上田城に進軍させた、この時、攻め寄せた徳川軍を撃退。
(のちに第一次上田合戦と称されています)
ちなみに、第二次上田合戦は、徳川の秀忠軍と真田軍の大規模な合戦が行われ、秀忠軍が攻め倦み、関ヶ原の合戦に遅参したとされていますが、大敗した事を裏付ける史料は無く、真田軍の軍勢数百と秀忠軍が、城外で小規模な戦いをし、上田城に逃げ帰ったと見せかけ返り討ちを仕掛けようとしている事に気が付き、秀忠軍は一旦、小諸城(こもろじょう)に撤退しました。とだけ記載されています。
この戦いは、徳川の本軍である秀忠軍を足止めさせる作戦があったとされている反面、大雨による不運もあったとされていて、近年の史料によると、上田城に進軍させたのは、家康の命令によるものであり、家康の誤算でもあった事が浮上しています。
・関ヶ原の合戦の前に、初陣ながら38000の兵を擁する秀忠に、上田城を落とさ、一足早く手柄をあげさせようとした事
・他の大名が予想より早く勝ち名乗りを上げ、関ケ原の合戦が早まった事。
・大雨の影響により、秀忠軍の進軍のスピードが遅くなった事。
この事により、まだ信頼のおけない他の大名への褒美として領土を、より多くあげなくてはならず、歯がゆさから、秀忠に当たり散らした事などが有ったとされています。
その証として、秀忠と共に進軍した重臣へのペナルティーは無かったと有ります。
真田正幸・幸村親子は、その後の関ヶ原の戦いにおいて、石田三成に付いた為、西軍敗北後の翌年1601年に徳川軍によって上田城を破却され、堀も埋められてしまいました。
徳川により許可を得て徳川によって潰された、なんとも皮肉なお城といえます。
ちなみに、西軍に付いた、真田昌幸と息子である次男:幸村は、徳川に付いた長男:真田信之と、その義父当たる、徳川の重臣の一人である・本多忠勝の必死な頼み込みにより、命を取られる事はありませんでしたが、九度山に配流され苦しい生活を送っていました。
幸村の父・真田正幸は九度山での生活のさい、1611年6月4日に病死しています。 慶長16年65歳の時の時でした。
真田親子が東西に分かれた理由について通説では、東西の軍どちらが勝利しても真田一族が残れるよう分かれたとされてきました。
しかし近年の説によると、信之の妻が家康の養女であり、信繁の妻は大谷吉継の娘、昌幸の妻は石田三成の妻と姉妹の関係にあったことが理由ではないかと言われています。
九度山から脱出!
幸村は幼いころから、真田家を守るために父・昌幸の命により、滝川一益、上杉、豊臣と人質として送り込まれています。
人質とはいえ、幸村は気に入られていたようで、待遇も良く、大事にされていたようです。
関ヶ原の戦い後、幸村親子は九度山に閉じ込められ、九度山から出られない様に幽閉されました。
九度山で貧しい生活を送っていた時、大阪の陣の誘いをうけ、九度山から脱出。この時の脱出劇にも説があり、紀州の浅野長晟が、監視の目を緩めたという説と、村人のウソなどによる協力が有ったという説ですで、いずれも定かではありませんが、どちらにしても幸村が大阪城に入った事は、まぎれもない事実です。
大阪・冬の陣
「大阪・冬の陣」では幸村の意に反し、大阪城にこもる攻防戦が中心となりましたが、幸村は、鯱城(こじょう)せず、大阪城の外に小さな出城「真田丸」を築き徳川軍を向い打つ攻防に出ます。
大坂城は淀川や大和川などに囲まれている為、川がなく比較的手薄で攻めやすい南側から、徳川軍が攻めてくる事を予測した幸村は、そのに真田丸を築き、敵の進攻を阻もうと計画したのです。
徳川家康 は包囲したまま攻めてこない作戦に出ます。そこで幸村 は、前面にある「篠山」という山に伏兵(ふくへい)を配置させ、前面に構える徳川方の前田軍に鉄砲を撃って何度も挑発を繰り返します。
それに対し、痺れを切らした前田軍は数日後、篠山に一斉攻撃をかけますが、すでにそこに、真田兵はおらず、離れた場所から前田軍をさらに挑発して怒らせ、挑発に乗った先発隊の一部が、真田丸に突入を開始!
それをキッカケに、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎 の部隊も真田丸に突入を開始したことで、残っていた前田軍も追撃を始めました。
徳川軍が城壁に辿り付くと真田幸村は、準備していた罠や鉄砲隊で一斉に徳川軍に攻撃を開始します。
しかし、大坂城内にあった火薬が爆発して櫓が焼け落ちてしまいます。 これをチャンスと見た徳川軍は、攻撃の勢いをさらに強めて行きますが、真田軍はもろともせず、ことごとく返り討ちにして行きます。 ここで、たまらず徳川軍は大坂城を攻め落とす事を諦め撤退をします。
撤退した徳川軍でしたが、その後、交渉事で豊臣側へ圧力をかけ、拒否権を持たす事無く、大阪城の外堀や内堀を埋め、さらに砦まで徹底的に壊していきました、当初の「外堀を埋める事や二の丸・三の丸の撤去」と言った、取り決めを無視して、徳川軍が強行したと言われています。
これにより、大坂城は無防備な城になってしまいます。豊臣家は「冬の陣」の終結後も、兵士になりうる浪人たちを、そのまま城内に留めていた為、家康は、浪人たちが町で乱暴を働いている事を理由に、豊臣家に「浪人を場外へだすか「豊臣家自体に別の土地に移るか」の二択を迫ります。 しかし豊臣家はこれを拒否したことで「大阪・夏の陣」へと突入していく事になります。
豊臣側に勝ち目があるとは思えない状況でしたが、積極的に兵を集め戦闘態勢を整えた行きます。
真田幸村最後の戦い! 大坂・夏の陣
1615年(慶長20年・元和元年)戦国時代の最後の合戦であり,幸村にとっても最後の戦いである「大坂・夏の陣」が勃発します。
「大坂・夏の陣」の双方の兵力は、豊臣軍・約7万に対し、徳川軍は15万以上だったと言われていて、豊臣軍にしてみると圧倒的に不利な戦いで有り、最後のプライドを掛けた戦いと言えます。
この道明寺は山と川に挟まれた場所で、数で圧倒している徳川軍と一戦を交えるのに絶好の土地でした、豊臣軍はここに真田幸村をはじめとする、毛利勝永、明石全登、後藤又兵衛という武将を進軍させ、徳川軍を迎え撃つ考えでした。
しかし、予想外の濃い霧で前が見えず、付け焼刃の傭兵部隊であったことから、部隊の足取りはバラバラで統率が取りずらい状態なってしまいました。
この場所に後藤又兵衛の軍勢 約2800 が先にたどり着いたのですが、真田、毛利、明石、の軍勢は遅れていたため、近くの山を拠点に、単独で徳川軍を迎え撃とうと考えます。
そこへ、伊達政宗、本多忠政、水野勝成など2万の軍勢が到着し、戦いの火ぶたが落とされました、しかし、圧倒的な数に押され、徳川軍の前に壊滅状態になっていたところ、霧を抜け一足遅れで豊臣軍の明石全登の部隊が到着し、そそまま後藤軍の救援するも、同じく徳川軍によって撃破され、豊臣側は劣勢状態(れっせいじょうたい)を余儀(よぎ)なくされます。
さらに遅れていた、真田幸村の軍勢が、伊達政宗の軍勢である片倉重長と激突。
[のちに、誉田の戦い(こんだのたたかい)と呼ばれる、戦(いくさ)となりました。]
真田軍は、道明寺辺りまで伊達軍を押しかえした後、藤井寺まで後退し、毛利勢と合流。
大坂城から八尾・若江の敗報と退却命令が豊臣軍に伝えられ、豊臣軍は真田軍を最後尾の殿軍(でんぐん)として、天王寺方面へ撤退を開始したが、この時、徳川軍は追撃する事は無かった。
そして、ついに両軍最後の戦いが始まります。
壊滅状態の豊臣軍にとって、もう勝つ見込みは無く、敗戦を覚悟した豊臣軍の勢いは凄まじく、特に真田幸村の突撃は電光石火のごとく、徳川軍の部隊・松平忠直の15,000の大軍を含む、10部隊以上の徳川軍を次々と真正面から討ち破り、ついには徳川軍の本陣どころか、徳川家康の目の前まで到達したと言われるほどでした。
この時、徳川家康が「切腹を考えた」という話や「討ち取られた」という逸話も有るほどです。
「討ち取られた」という逸話として、翌年に家康が死去した事が挙げられていて、大坂の陣で死去したことを隠していたのではないかとと言う説です。
当時の通信網は、機械などなく人づてしか無かった事と、影武者を用意ていた事も説にあげられています。
これにより、真田軍は家康本陣に親子二代に渡り突入し、家康を脅かした事になります。
真田軍による本陣突入を、主君:家康の危機と悟った井伊直孝(いい なおたか)が、岡山口から軍勢と共に駆けつけ、真田軍に横槍を入れて突き崩し、士気の下がった真田軍を見て、息を吹き返した、松平軍の反撃によって次々と討ち取られ、数が減っていき、遂には部隊が分断されてしまい、兵力で勝る徳川勢に押し返され、幸村は家康に肉薄しながらも、ついに撤退を余儀なくします。
真田軍が撤退をはじめたのを見た毛利隊も攻撃続行をあきらめた為、豊臣軍は総崩れとなって大坂城への退却を開始し、天王寺口の合戦は豊臣軍の敗北が決定的となり、最終的に徳川軍に制圧され、大阪城も炎上!、戦国時代最後の戦いは終焉をむかえます。
この時、豊臣秀頼には2人の子がいたのですが、幸村は息子の(国松)を連れ、大坂城を脱出し、薩摩(現在の鹿児島)に落ち延びたという説もあるようですが、徳川家の捜索により発見され処刑されたとされています。
一方、娘は大坂城落城時に徳川軍に捕らえられ処刑されそうになりますが、千姫が身を挺してかばい、出家することを条件に許されました。
千姫はその後、本多忠勝の孫にあたる「本多忠刻」に嫁いでいます。
大坂の夏の陣と六文銭
真田信繁(幸村)は大坂の陣で実は、六文銭を使用していなかったと言われています。
メディアなどの影響から、六文銭の旗を掲げて家康の本陣へ突入したと思われがちですが、全てを赤で統一し、赤い旗に金線を付けただけの旗印で決戦に望んだとされています。
この説には、徳川方についた兄である真田信之に対しての配慮と、赤備えをシンボルとしていた武田氏の流れを汲む者であることを表したかったのではないかと思われます。
真田信繁(幸村)の享年は?
真田幸村は、1615年(慶長20年)に死没したことは、解っているのですが、歴史書に記載された、没年齢が、46歳と49歳の2つの説に分かれていて、実年齢は定かではないようです。
『左衛門佐君伝記稿』では享年49歳と記載されており、没年齢から逆算されたもので、この説では月日は不明
月日の表記はないが、幕末期に成立した真田氏の史書『真田家御事跡稿』では一説として、真田家の菩提寺である長野県 長国寺の過去帳(原本は現存せず)に享年46とあったと記されている
『仙台真田系譜』では元亀元年2月2日生とする。『仙台真田系譜』『武辺咄聞書』は共に享年46としている
真田信繁(幸村)の最期
幸村の最後も諸説あり、幸村とされる首も多数あったと言われていますが、有力な説として、近年発見された新史料では、大坂夏の陣で敗戦から逃れ、疲れ果てた状態でいるところを、越前松平家・鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、声をかけられたことで、互いに馬から下りて槍で戦った末に討ち取り、陣中に首を持ち帰った。
この時、真田の武将である事は解ったものの幸村である事は知らなかったと有ります。
その後、以前に真田家に仕えていた者が陣中見舞いに訪れ、信繁(幸村)であることが判明したと記述されていますが、家康に報告した際、誇張したとされ、怒りをかったともされます。
生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で身を休めていた信繁に、西尾が相手を知らずに声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討ち取り、後に陣中見舞いに来た知人が過去に真田家に仕えていたことから信繁の首と判明したと記述されている
また、幸村が「わしの首を手柄にせよ」と首を差し出したともいう説もありますが、どちらにせよ、名も名のらずに戦ったのは、首をかしげるところです!。
上田城跡公園アクセス
上田城址公園・徒歩でのアクセス上田城址公園へは、JR上田駅お城口・正面出口から直進して中央2丁目交差点を左折して、さらに、まっすぐ進んだ場所に有り、所要時間:約12分ほどのところにあります。
車でのアクセス
一般車(上田城跡駐車場)
■通常時 【時間】24時間【台数】88台【料金】無料
■イベント開催期間中はバス専用になることが有る為、一般の駐車禁止の場合があります。
一般車(上田城跡北観光駐車場)
■通常時(台数104台)
1時間以内/無料
1時間超~11時間以内/1時間ごと100円加算
11時間超~24時間以内/1,000円
24時間超/1日ごと1,000円を加算
■特別期間
3時間以内/500円
3時間超~8時間以内/1時間ごと100円加算
8時間超~24時間以内/1,000円
24時間超/1日ごと1,000円を加算
(上田城千本桜まつり、上田真田まつり、ゴールデンウィーク含む)4月上旬~5月上旬
(上田わっしょい、花火大会、お盆含む)7月30日~8月16日
(上田城紅葉まつり)10月29日~11月6日
バス専用(上田城跡南駐車場)
■通常時 【時間】9:00~17:00(17:00~翌9:00封鎖)
【台数】35台
【料金】1台1回につき2,000円